バレンタイン★キッス
これはもう、魔が差した、としか言いようがない。
綺麗にラッピングされた包みを前にいったいこれをどうしたものか、と俺は大きく溜息をついた。
今日、接待前に客に渡す手土産を買おうと百貨店の地下食品売り場に向った俺は、いつも用意している部長お気に入りの「アンリ・シャルパンティエ」で、五千円の詰め合わせを用意してもらっていたのだが、ふと傍らに積んであった『それ』についつい目がいってしまったのだった。思わず
「これも。あ、この分、領収証はいりませんので」
と購入してしまった俺を見て、販売員は笑いを堪えるような顔をしたのだったが、どういう想像をしたかは簡単に予想がついた。
そう、モテない男が見栄を張るために買ったに違いない、としか思われないであろうそれは――チョコ、だった。
本当に魔が差したとしか思えなかった。そうじゃなかったら、百貨店の店内で煩いくらいに繰り返される売り子の声に乗せられたとしか思えない。今日は2月12日――2日後の14日は、チョコレート会社が一年中で一番の売上を見せる(のだろうか)バレンタインデーなのだった。
そもそもこのバレンタインデーに、女性が自分の思いを乗せたチョコを男性に贈る、というのは日本独自の風習らしい。半世紀ほど前にメリーチョコかどこかがはじめたキャンペーンが発祥らしいのだが、海外では男女を問わず想い人に何か贈り物をする日であるという――ってバレンタインの解説はこの際どうでもいいが、そんな日本の風習を何故自分はちらとでも実践しようなどと考えてしまったのだろう、と俺は目の前の赤い包装紙に包まれたチョコの包を見て大きく溜息をついた。まあ、良平は酒も飲むが甘いものも嫌いじゃないので、あげれば喜んで食べるかもしれないが、問題はどうやってあげるかだ。
そもそも男が男にチョコをあげるなんて、どう考えてもヘンだ。
『バレンタインだから、買って来たんだ』――というのもなんだし、
『これ…』――と頬を染めて渡す、というのはもっとおかしいだろうし、
『まあ、シャレだと思って』――なんて軽口を自分が叩けるとも思えないし、
枕もとにこっそりおいておいて、翌朝『なんや、これ』――じゃ、季節はずれのサンタクロースか、というツッコミを受けそうだし、一体どうしたものか、と俺が包の前でうーん、と腕組みをしたとき、ドアチャイムの音か室内に響き、良平の帰宅を知らせた。
「はい」
俺は慌ててチョコの包みを鞄に突っ込むと、鍵を開けてやるために玄関へと向かった。
「ただいまあ」
少し疲れたような良平の声がドア越しに聞こえてくる。接待を済ませてきた俺より遅い時間、しかも俺のように飲んでいたというわけでもないだろうから、疲れていて当然なのかもしれない。俺が接待だと言ったら、自分もメシは外で済ませてくると言っていたけれど、食べる暇などあったのだろうか、と思いながら俺は急いで鍵をあけ、ドアを外側へ大きく開いた。
「ただいま」
やはり少し疲れた顔をしている良平がにっこり笑いながら入ってくると、その場で俺を抱き寄せ、唇を落としてきた。
「おかえり」
恒例の『おかえりのチュウ』を簡単に済ませると、
「メシ、食ってないだろ?」
と彼を見上げた。
「なんでわかるん?」
俺の背を抱いたまま驚いた顔で彼が見下ろしてくるのに、
「そりゃわかるよ」
と返してはみたものの、良平があまりに
「え?え?ほんま、なんで??」
と不思議がって見せるのに、胃のあたりがへこんでいるような気がしたというだけの根拠とはとてもいえなくなってしまい、
「今、用意するから」
と適当に誤魔化すと、俺は彼の腕をすり抜けキッチンへと足を運んだ。
「刑事並みの洞察力やね」
ほんま、まいったわ、と、良平はまだ感心していたが、俺がどうしようかな、と冷蔵庫を開けて悩んでいるのを見ると、
「ああ、ほんま、ええよ?ご飯食べてくる言うたのに食べへんかったんは僕が悪いんやし」
とあまりに気を遣ったことを言ってきた。
「『食わなかった』んじゃなくて、『食えなかった』んだろ」
「まあな」
苦笑する彼に、俺は冷凍しておいたカレーと白飯を、簡単だけどこれでいいか、と示してやると
「ほんま、おおきに」
と良平は言いながら、リビングへとコートを脱ぎに戻っていった。電子レンジでそれらを温め、こんなことなら何か買ってくればよかったかな、と思いつつリビングへと戻ると、なんと良平は俺の鞄の中をのぞきこんでいるじゃないか。
「おいっ」
何してるんだ、と慌ててカレーをテーブルに置いて彼の方へと駆け寄ると、
「…えらい気が早い女の子もいるもんやねえ?」
嫌味丸出しの口調で良平は俺の鞄の中から、あのチョコの包を取り出し俺へと示してきた。
「そんなんじゃないよ」
返せよ、と取り上げようとすると、良平はひょいそそれを高く掲げて
「アンリシャルパンティエ、懐かしいなあ。このサイズやと結構、値段もするんちゃう?」
などと言いながら一通り包を検分し、
「やめろって」
と怒声を上げかけた俺に、はい、と簡単に返してくれた。
「ほんま、おやすくないわ。二日も前に渡してくれる、ゆうんは結構本命やったりして?」
探るような眼差しを向けてくる彼に、
「違うって」
と答えながら、俺はもう一度それを鞄へと仕舞った。しかし、いつもなら俺の鞄になど興味を示さない彼が、こんなときに限って中を覗いてくるなんて、と
「それにしてもよくわかったな」
と呆れたように彼を見返すと、
「刑事のカンを舐めたらあかんよ」
と良平は笑って俺の肩を叩き、いただきまーす、とテーブルへと向っていった。
すごい勢いでカレーを平らげた良平は、相当腹をすかせていたらしい。
「ああ、ようやく落ち着いたわ」
などと言いながら皿を片付けようとするのを、「俺がやるよ」と制した俺の手首に、良平の手が伸びてきた。
「なに?」
皿をテーブルに戻しながら見下ろすと、良平は取った手を軽く引いてくる。そのまま彼の膝の上に倒れ込んだ俺の背にもう片方の手を回し、良平は俺を抱き抱えるようにして唇を重ねてきた。
「……ん……」
俺も彼の背に両手を回し、互いの身体を密着させる。まだ二人とも外していなかったタイが互いの胸を圧し、それに気づいた良平が俺のタイを緩めてきた。おかえし、というように俺も片手を前に回して彼のタイの結び目に手をかけ、それを緩めてやりながら、ワイシャツのボタンを外しにかかる。
「……酔うてるの?」
僅かに唇を離した良平にそう囁かれ、俺は今更のようにいつにない積極的な自分に気づいて慌てて彼のシャツから手を退けた。
「今更照れんでもええやん」
良平はそう笑いながらも再び唇を落としてきたが、せや、と何かを思い出したように小さく声をあげると、
「……さっきはごめんな」
と俺の目を見下ろしながら、小さな声でそう言った。
「さっき?」
謝られることなんかあっただろうか、と首を傾げた俺に、良平は
「ついついヤキモチ妬いてしもて……ごろちゃんが女のコにモテるんは仕方ないことやのに、かんにんな」
申し訳なさそうにそう頭を下げる良平の言葉の意味が、俺には全くわからなかった。俺がどうして女のコにモテるなんて思うんだ?――と、ここで俺は、ようやく先程のチョコのことを思い出した。
「違うって」
良平はまだ、あれを俺が誰かに貰ったと勘違いしたままだったらしい。慌ててそう否定する俺に、
「違う?」と眉を顰めた良平に、俺は思わず
「あれは俺が買ったんだよ」
と本当のことを言っていまい――しまった、と今更のように息を呑んだ。
「ごろちゃんが?」
良平は益々不審そうに眉を顰めて俺を見下ろしていたが、やがて、これ以上はないというくらいのやにさがった顔になっていった。
「……ごろちゃんが買うたの?」
にやにやと笑いながら、良平が俺に額を合わせてくる。
「……うん」
ああ、気づかれてしまった――が、誤解されたままよりはよかったかもしれない。そう思おうとしても、どうにも照れ臭さが先に立ってしまい、俺はぶっきらぼうにそう小さく頷くと、彼から顔を逸らせてその腕から逃れようと身体を捩った。
「誰にあげよう、思うたんかな?」
逃げようとする俺の身体を、おっと、と声を上げながら良平は更に強い力で抱き寄せてくると、更にやにさがりながら俺の顔を覗き込んでくる。
「……別に。自分で食べたくなったんだよ」
「ふうん」
にやにや笑いが止まらない良平は、とっくに俺の嘘を見抜いているようだった。
「ほな、食べよか?」
良平は俺を抱き抱えたまま片手を俺の鞄へと伸ばすと、中からチョコの包を取り出し、はい、と俺に示してみせた。
「……うん」
俺は手を彼の胸について身体を離すと、チョコの包を受け取り、改めて良平の顔を見返した。
「辛いカレーのあとは甘いモンてね」
くすくす笑って俺を見る良平の鼻を明かしてやりたかった、というのが動機だった――はずだったが、実際彼にチョコを差し出した手は思った以上に震えてしまった。
「……本命だから」
冗談めかして言うはずが、口に出した途端、恥かしさのあまりかあっと血が頭に上ってしまい、まるで女子中学生が憧れの先輩に告白するようなおどおどした口調になってしまった。そのことが尚更に俺の羞恥を誘い、思わず差し出したチョコを引っ込めようかとしてしまったのだったが、良平はそれより先にそれをわしづかむようにして受け取ると
「…………ほんま、おおきに」
と少しもからかう口調でなく、にっこり笑って俺を見た。
「……うん」
頬が燃えるように熱い。こんな照れ臭いことするつもりではなかったのに、と俯く俺の目の前で、良平は包を丁寧に開け始めた。
「アンリシャルパンティエゆうたら、うちの姉貴が二人とも好きでな、よう買いに生かされたもんやわ。フィナンシェが美味しかった記憶はあるんやけど、チョコも美味しそうやねえ」
そういえばアンリは芦屋が本店だった。良平があの姉さん二人にパシリに使われていたということは、あまりにも容易に想像できて、俺は思わず笑ってしまった。
「ああ、ほんま、美味しそうやわ」
箱を開けながら良平は、中身を俺に見せてくれ、そのうちの一つをぽん、と口に放りこんだ。
「美味しいわ」
そしてもう一つを手にとると、俺の口元に持ってくる。
「はい、あーん」
にっこり笑う彼の言葉に釣られてしまい、気づけば俺は彼の前で大きく口をあけていた。
「ええ子やね」
ぽん、とチョコを俺の口に放り込んでくれながら、良平が俺と額を合わせてくる。
「美味しい」
口の中に広がるチョコの心地よい甘さに、そう言って彼に微笑みかけたとき、良平の片手が俺の首の後ろへと伸びてきて、引き寄せられたと思ったときには唇をふさがれていた。まだチョコの乗っている舌に良平の舌が絡んでくる。二人の舌の間でチョコはあっという間に解け、甘い香りと味がを互いの咥内を満たした。その甘さを拭いとるかのように良平の舌が俺の口の中で暴れ回る。いつしか貪るような激しいくちづけをかわしていた俺は、思わず彼の背に手を回し、崩れ落ちそうになる身体を支えてしまっていた。それでも良平は俺の唇を解放してはくれず尚も激しく舌を絡めてくるのに、息苦しくなってたまらず顔を背けると、
「かんにん…」
ようやく唇を微かに離してくれた良平が、俺に掠れた声で囁いてきた。
「……え?」
大きく息を吸い込んだあと、なにを謝っているのだろう、と彼を見上げると
「チョコ…なくなってもうたね」
くす、と笑いながら良平がまた唇を寄せてくる。
「……もいっこ、食べようか?」
キスの寸前でそう囁き返すと、良平は何時の間にかテーブルの上に置いていたチョコをちらと見やったあと、
「ええわ」
と再び俺に唇を寄せてきた。
「もっと甘いモンが食べたいってな」
「もっと?」
甘いものってなんだろう――彼のシャツの背を掴み直しながらそう尋ねる俺に、良平はまたも相好を崩し捲くった笑顔を見せた。
「そんなん、ごろちゃんに決まっとるやないか」
「……馬鹿」じゃないか、と言う言葉は途中で良平のキスに飲み込まれてしまった。
バレンタインにチョコの残り香を残す甘い甘いキス――というのはあまりにもベタだと思いつつ、折角だから一年に一度のこの行事に乗ってやろうと、俺もその『甘いキス』に没頭するため、良平の背をぎゅっと握りしめたのだった。
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